
「右目の光を失った。怖かった」元4階級制覇王者の田中恒成が失明の恐れのある「網膜剥離」で29歳で電撃引退…「最後の1試合が叶うなら井上拓真と戦いたかった」
不世出の天才ボクサーである。突出したスピードにカウンターを奪うセンス。闘志を剥きだしにした激しい殴り合いもファンを魅力した。“最速”のボクシング史を次々と塗り替えてきた。
畑中会長が言う。
「小5で初めて練習を見たとき、5、6年ですぐ世界王者になると思った。格闘センスとスピード。年齢が足りず7年かかったが間違いはなかった」
田中は、思い出に残る試合を3試合ピックアップした。
その1試合が、当時、世界6位にランキングされていたオスカー・レクナファ(フィリピン)とのデビュー戦だった。1ラウンドにダウンを奪い判定勝利した。
「中京高校3年で畑中会長に強い試合と組んで欲しいとお願いした。そこで持ってきた相手が世界6位。自分は高校生でプロでどれだけ通用するのか、全然わからない中、決まったなら決まったで“変なことを言った”と不安になった」
当時、腰の状態が悪くて、ジムに来てもストレッチだけで帰る状況でスパーリングも消化できていなかった。アマチュアは3ラウンドでプロの6ラウンドに不安もあったが、そのラウンド数も経験しておけなかった。
「どうやれば自信を持ってリングに上がれるか」と考えた結果、いきついたのが「実戦のようなシャドー(ボクシング)を10倍やろう」というプラン。「シャドー10ラウンドがスパーの1ラウンド分だ」と決意して試合に臨み「乗り越えたことが心に残っている」という。
田中はこのデビュー戦が、その後、達成することになる数々の世界最速記録の原点だという。
「会長が田中恒成に勝負をかけてくれた。それが最速記録に大きく影響した。3階級、4階級、できなかった5階級もそう。僕の中ではできると思っていた。目標というよりできるとしか思っていなかった。会長には感謝している」
そして「宝物」と表現した「チーム田中」ら「畑中ジムの素晴らしい環境が最速記録の理由」とも説明した。
田中は、2016年の大晦日に8戦目で2階級制覇、2018年9月にWBO世界フライ級王者の木村翔(青木)に挑み僅差判定で達成した3階級制覇は、12戦目でワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)に並ぶ世界最速記録、そして2024年2月のWBO世界スーパーフライ級王座決定戦で達成した4階級制覇は21戦目でオスカー・デラホーヤ(米国)が持つ23戦目を超える世界最速記録だった。
その木村翔との試合も3つ浮かんだ思い出の試合のひとつだ。
試合前は、首のヘルニアに苦しんでいて試合後に手術を行うことになるのだが、スパーどころか練習もほとんどできない大ピンチだった。木村はスタミナと手数、そして前に出続けるハートが武器の王者だった。苦手だったランニングを多く取り入れ、試合まで「1日も1時間も捨てずに練習をやった」という。
「一切、弱気な気持ちにならず12ラウンドを戦いきれた。あれも僕のボクシング」