菜七子を超えろ!なぜ彼女らはジョッキーの道を選んだのか…3月にJRAで5年ぶりに女性騎手2人が同時デビュー!!
一方の永島は、地方競馬「園田」の名手としてならした永島太郎調教師の次女だ。
「私たち3姉妹は競馬場で育ったので、みんな馬は好きですが、馬に乗りたいと言ったのは私だけ。5歳から乗り始め、その後、阪神競馬場の乗馬センターに通いました」と話す。
2月9日の競馬学校卒業式には父と再会。
「おめでとう!ここからがスタートだから頑張れよ」と励まされたという。
2人には3月1日に騎手免許が交付される。菜七子も含めて、女性騎手が3人もJRAに在籍することになるが、実は、これは初めてのケースではなく、2001年には、同時に5人が在籍していた時代もあった。しかし、海外や地方競馬とは異なり、彼女らはJRAで目立った活躍はできず、その存在感は薄れていった。菜七子のデビューまで実に15年のブランクがあった。今度こそ本格的な女性騎手の時代が到来するのか。
JRA初の女性騎手として1996年にデビューし、2001年6月の引退まで14勝した細江純子さんは自身の経験も踏まえ、こう期待を寄せる。
「女性騎手の人数が増えるのはいいことです。少ないと、ひとつのミスが目立ってしまいがち。多いと、いい意味で注目度が分散され、1人1人の負担も軽くなるでしょう。最近、競輪の女子選手と話す機会があり、競輪も人数が増えたことでレベルも上がってきたそうです」
女性騎手のパイオニアとして、男性社会の競馬界で戦い続け、現在はホース・コラボレーターとして多くのメディアで活躍中の細江さんの言葉には説得力があった。
公営ギャンブルの世界では、競輪だけでなく、積極的に女子選手の登用を仕掛けてきたボートレースでも「SGオールスター」のファン投票で大山千広ら複数の女子選手がトップテンに名を連ねるなど、女性進出が目立ち、その男女の実力差も年々縮まっているように思える。
競馬界でも女性騎手が活躍できる条件が整っている。2019年から減量特典のルールが変更され、50勝以下までは4キロ減で騎乗可能。100勝までは3キロ減、免許取得後5年以上または、101勝以上でも重賞レースなど特別競走やハンデ戦を除くと永久的に2キロ減が保証される。競馬の世界では1キロ違えば1馬身=コンマ2秒違うと言われており、これは大きなアドバンテージだ。
受け入れ態勢も万全だ。永島が所属する高橋康之調教師(48)は騎手出身で実直な人柄。調教助手時代にはフランスやイギリスへ留学し、視野を広げている。厩舎では女性スタッフが3人働いているのも永島にとっては心強いだろう。
「男性、女性というより1人のスタッフとして働いてもらっている。私がまなみにできるのは、きっかけを与えること。個人馬主さんが多いので、そのチャンスは多いかもしれない。本人には自分で考え、行動するように、と常々伝えていますが、芯の強さがあって、勉強熱心だし、素直で吸収も早いですよ」
その思いに応えるように永島も精力的に追い切りをこなし、デビューに備えている。
「女性スタッフには優しくしていただいています。先生からは馬によって性格やタイプが違うので、それを見極めることが大事とアドバイスされています。それを忘れず、馬を真っ直ぐ走らせるように心掛けていて、こぶしやひざの使い方を工夫しています。目標とする騎手は武豊さんと岩田康誠さん。騎乗スタイルは異なりますが、数々の記録を残し、ファンや関係者に信頼されている。私も将来は一流ジョッキーの仲間入りをしたい」
一方、古川が所属する矢作芳人調教師(59)と言えば、いまや押しも押されもしないトップトレーナー。厩舎は3冠馬コントレイルを筆頭にオープン馬の宝庫となっている。その人脈、交遊の幅も広く、仕事はもちろん、息抜きとしての遊びも手を抜かない。
そんな矢作調教師は古川を絶賛する。
「とにかく人間的に魅力がある。負けず嫌いで現状に満足しない。志が高いんですよね」
矢作調教師は見識の深さでも広く知られており、女性騎手の可能性について聞くと「競馬はスポーツであり、興行でもある。だから女性騎手の活躍の場を広げる減量のルール変更を働きかけてきた。JRAがもう一段高いステージに行くためには女性騎手が活躍し、華やかさや彩りも必要でしょう。その中でうちの奈穂にも期待したい。そして、最終的には女性調教師の誕生。これですね。文化的にもそうならないといけないでしょう」とビジョンを熱く語ってくれた。
古川自身は恩恵にあずかり、これまでG1馬モズアスコット、G3馬のサトノガーネットなどの追い切りに騎乗。また一昨年に宝塚記念、有馬記念を連覇し、年度代表馬にもなったリスグラシューにもまたがり、その背中を知るという貴重な経験もしている。
「厩舎周りの乗り運動、並足(常歩)だけでしたが、私は緊張しっぱなしなのに馬の方は悠然としていた。乗せてもらっている感じだったので、どんなときでも主導権を握れるようにならないといけないと思った」