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東京ドームの長嶋茂雄ゲートにはファンからの献花が
東京ドームの長嶋茂雄ゲートにはファンからの献花が

「1960年代に彼の才能の噂は米国にまで届いた」海外メディアも長嶋茂雄氏を追悼「戦後に高度経済成長した日本のシンボル」

 巨人の終身名誉監督で国民的スターだった長嶋茂雄氏が3日、午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなった。89歳だった。現役時代の数々の栄光に加え、2度就任した監督としても巨人を5度のリーグ優勝、2度の日本一に導いた。2013年には国民栄誉賞、2021年には野球界から初めて文化勲章を受章した。メジャーリーグではプレーしなかったが、海外メディアも一斉にミスタージャイアンツの訃報を伝えた。

 メジャーから誘いがあった秘話も

 長嶋茂雄氏が残した名声は国内だけに留まらない。時代が時代で、メジャーリーグでのプレー経験はなかったが、巨人の背番号「3」を背負い、国民的スターとなり、監督としてもリーグ優勝5度、日本一2度の成績を残した。ミスタージャイアンツであり、日本野球、ひいては日本文化の象徴的存在でもあったレジェンドの死去を海外メディアも速報で報じた。
 英BBCは「日本野球のレジェンド、シゲオ・ナガシマが89歳で死去」との見出しを取り「長嶋氏は日本で最も有名なスポーツスターの1人だった」としてその功績を紹介した。
「ミスター・ジャイアンツのニックネームで、長嶋氏は1960年代から70年代に巨人の9年連続優勝に貢献して、2186試合に出場して444本塁打を放った。彼の死に際し、日本政府関係者の一人は長嶋氏が社会に『明るい夢と希望』をもたらしたと語った。日本が経済的な繁栄と自信を深めていく時代で彼の能力と愛嬌は人気を博した」などと伝えた。
 当時はプロ野球より人気のあった東京六大学の大スターとして1957年に立教大から巨人に入団した長嶋氏は、高度成長期の日本経済の発展と共に活躍して巨人のV9に貢献し、野球ファンだけに留まらず社会に夢と希望を与える国民的スターだった。
 同記事はまた「ミスタープロ野球のニックネームも持つ長嶋氏は、1959年にプロ野球で初となる天皇陛下による天覧試合で有名なサヨナラ本塁打を放った。彼は17年間で6度の打撃タイトルを獲得して1974年に引退した。長嶋氏は、監督としても15年間で巨人を2度の日本一へ導いた」とも紹介した。
 さらに「ON」として長嶋氏と共に巨人、野球界の顔となった現在ソフトバンク会長の王貞治氏の「長嶋さんには色々と教えていただきました。一緒に野球ができたことを本当に感謝しています」というコメントを掲載。「現在日本でもっとも有名な野球選手の1人」であるドジャースの大谷翔平が、彼のインスタグラムに長嶋氏と一緒に写っている写真を投稿し、「心よりご冥福をお祈りいたします」と綴ったことを紹介し、日本政府の官房長官である林芳正氏が「長嶋さんは『太陽のような存在』だった」とコメントしたことを付け加えている。
 米FOXニュースは「日本で“ミスタープロ野球”として知られるシゲオ・ナガシマが89歳で死去」との見出しを取り、「長嶋氏はイチロー・スズキや大谷翔平といった日本の選手たちが北米のMLBでスターとなり始める前の時代を支えた有名選手だった」と伝えた。同局も大谷が3月の東京ドームシリーズの際に撮影した長嶋氏とのツーショット写真など3枚をインスタに投稿して『心よりご冥福をお祈りいたします』と綴ったことを紹介した。
 同局は長嶋氏の経歴を紹介しつつ、「長嶋氏は、ロジャー・マリスやヘンリー・アーロンといったそれぞれの時代の強打者とともに、そして2000年代に入っても松井秀喜やイチロー・スズキとともに公共の場に登場し続けて、何十年にもわたり野球の振興に尽くしたアンバサダーだった」と、プレーヤー、監督以外の活動の功績をも称えた。

 

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