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東京ドーム内の壁には引退試合の写真と在りし日の長嶋さんのプレー風景が
東京ドーム内の壁には引退試合の写真と在りし日の長嶋さんのプレー風景が

あの日、長嶋茂雄さんは声を震わせて怒った…「それは別問題の議論です」…2000年「夢のON対決」となった日本シリーズ前の取材で金権野球への批判と巨人の横暴論について質問が飛び

 巨人の終身名誉監督で国民的スターだった長嶋茂雄さんが3日、午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなった。89歳だった。現役時代の数々の栄光に加え、2度就任した監督としても巨人を5度のリーグ優勝、2度の日本一に導いた。2013年には国民栄誉賞、2021年には野球界から初めて文化勲章を受章した。長嶋さんは、監督としては選手に激しさ、厳しさを持っていたそうだが、メディアや取材に対しては、常に穏やかで明るく応じた。その長嶋さんが怒りを露わにしたことがある。25年前、筆者はその現場に出くわした。

 監督としてリーグ優勝5度、日本一2度

 ミスタージャイアンツ…いやミスタープロ野球が亡くなった。長嶋さんに初めて会ったのは、1988年にオーストラリアであった名球会のイベント。当時、サンケイスポーツの虎番だった筆者は、阪神の監督として復帰した故・村山実さんに張り付いていた。まだ浪人中だった長嶋さんからの天覧試合で対戦したライバル村山さんの監督復帰に関する応援ラブコールを記事にしようと名刺を渡した。
「そうですか、大変ですね、ええ」
 こちらの取材意図を即座にくみとってくれた。驚いたのはゴルフでのワンシーン。おそらくいつもそう呼んでいるのだろう。張本勲さんらが長嶋氏をごく自然に「長嶋さん」ではなく「ミスター」と呼ぶのだ。超一流が集まる名球会の中で、長嶋さんに寄せられた尊敬の念をまじかに感じた瞬間だった。
 長嶋さんにはメディアの信者も多かった。明るく応答に機転が利き、見出しになる語録が飛び出す。そして、どんな質問も受け入れた。阪神の藤川球児監督は、試合前のメンバー交換で広島の新井貴浩監督と目を合わしてこなかったが、この日は合わせて握手したことを会見で聞かれ「ここでお話することではないし、それが質問にあがること自体が会見としてふさわしくないんじゃないかと」と答えたそうだが、長嶋さんは、そんなファンとの接点となる記者会見の存在価値さえ否定するような発言を一切したことはなかった。
 だが、その長嶋さんが明らかに不機嫌になり声を震わせ怒った場面に遭遇したことがある。
 2000年10月8日の宮崎県営野球場(現・ひなたサンマリンスタジアム宮崎)。室内練習場の一室でスポーツライターの玉木正之氏による長嶋監督へのインタビューに立ち会った。そのシーズンに再登板後、8年目迎える長嶋巨人は、オフにFAでダイエー(現ソフトバンク)の工藤公康、阪神を退団したダレル・メイ、逆指名で高橋尚成と、長嶋さんが、「レフティー」と呼んでいた課題の左腕を補強、さらにFAで広島から江藤智を獲得するなど大型補強をして6月にはペナントレースを抜け出して4年ぶりにリーグ優勝を果たしていた。
 1番から仁志敏久、清水隆行、江藤、松井秀喜、高橋由伸、ドミンゴ・マルティネスと並び、清原和博もいる打線は「ミレニアム打線」と呼ばれ、シーズンのチーム本塁打は203本だった。
 一方のパ・リーグは王貞治監督が率いるダイエー(現ソフトバンク)が連覇を果たして、日本シリーズでの「夢のON対決」が実現したのである。宮崎を訪れたのは10月21日から始まる日本シリーズに向けてのミニキャンプ中で、当時、編集にかかわっていた角川書店のスポーツ総合雑誌「Yeah!」の日本シリーズプレビュー号の巻頭インタビューとして筆者がセッティングしたものだった。

 

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