
追悼…釜本邦茂さんが残した一流ストライカーの定義「失敗しても何回でもシュートにトライできる勇気以外にない」…街中の人混みで鍛えたドリブル技術
日本サッカー界が生んだ最高のストライカー、釜本邦茂さんが10日、肺炎のために大阪府内の病院で死去した。81歳だった。1968年のメキシコ五輪で7ゴールをあげて大会得点王に輝き、日本代表の銅メダル獲得に貢献した釜本さんは、今も歴代最多となる国際Aマッチ通算75ゴールをマーク。Jリーグの前身、日本サッカーリーグ(JSL)でも歴代最多の202ゴールをあげて7度の得点王を獲得するなど、数々の伝説を打ち立てた。豪快であり負けず嫌いだが、サッカーに対して純粋で常に熱い気持ちを脈打たせていた。
今なお日本人歴代最多の国際Aマッチ通算75ゴール
不世出のストライカーが旅立った。
日本サッカー協会(JFA)とJリーグ、黎明期に監督を務めたガンバ大阪などが連名で発表したリリースによれば、釜本さんはかねてから病気療養中だったが、10日午前4時4分に肺炎のために大阪府内の病院で死去した。81歳だった。
日本代表がベスト8進出を果たした1964年の東京五輪。強豪アルゼンチン代表を逆転で撃破した日本のグループリーグ初戦で、釜本さんのアシストから同点ゴールを決めたJFAの川淵三郎元会長(88、現JFA相談役)がJFAを通して発表した追悼コメントの締めの部分に、釜本さんの“すべて”が凝縮されていた。
「現役引退後、“釜本2世”と謳われた選手は何人も出てきましたが、半世紀たった今も彼に近づいた選手はまだ現れていません。“不世出の選手”という言葉がぴったりな釜本さんでした」
釜本さんは負けず嫌いな性格の持ち主だった。
東京五輪が閉幕した翌日の1964年10月25日。母国の西ドイツへ帰国するデットマール・クラマー・コーチ(故人)を送り出すパーティーの席で、薫陶を受けた代表選手たちの思いが綴られたサイン帳が手渡された。
そのなかに黒いマジックで記された、異彩を放つ英文がある。
<I don’t like to be Hokkaido bear K, Kamamoto>
和訳すれば「私は北海道の熊になるのが好きではありません」となる英文を、クラマー氏へ贈った意味を釜本さんに聞いたのは半世紀が経った2014年。ザックジャパンが大きな期待を背負っていたW杯ブラジル大会が開幕する直前に、後輩たちへの提言を聞こうとインタビュー取材を行ったときだった。
「ボールを受けてから振り向くまでの動きが遅いと、クラさん(クラマー氏)からよく言われましたからね。『ブラジルの選手はイチで前を向く。ヨーロッパの一流選手はイチ、ニーで前を向く。お前はイチ、ニー、サンだ。遅い。まるで北海道の熊だ。しっかりとトレーニングを積まなければ、北海道の熊のままで終わってしまうぞ。せめてイチ、ニーで前を向け』と、最初に会ったときから何度も言われましたよ」
釜本さんは苦笑いを浮かべながら、早稲田大学の2年生だった東京五輪時に記した英文に、必ず見返してみせるという誓いを込めたと明かしてくれた。
ならばクラマー氏から突きつけられた難題を、実際にどのようにして乗り越えたのか。映像は言うまでもなく、海外の選手を特集した雑誌などの資料も極端に少なかった時代。それでも自己流で徹底的に研究を重ね、やがてはクラマー氏を納得させた答えを、釜本さんはうれしそうに語ってくれた。
「もちろん筋力は鍛えましたけど、それだけじゃない。要は余計なことをしない。ボールの受け方の問題です。相手に背中を向けてボールをもらえば、まともにプレッシャーを受けてしまう。相手のマークから一瞬離れて半身になって、肩で相手のプレッシャーを受け流しながらボールを受ける。これだと、ボールをまたぐだけですぐ前を向くことができる。南米の選手はみんなそうしていたんですよ」
もっとも、クラマー氏は次なる課題を「右、インターナショナル。左、ハイスクール」なる言葉を介して釜本さんに突きつけている。左足によるシュートが極端に不正確だったのを揶揄されたものだが、豪快さだけでなく真面目さをも同居させていた釜本さんは、熟慮を重ねた末に常識外の練習方法を思いついている。