
「1960年代に彼の才能の噂は米国にまで届いた」海外メディアも長嶋茂雄氏を追悼「戦後に高度経済成長した日本のシンボル」
ニューヨークタイムズ紙は「戦後日本の“ミスター・ベースボール”、シゲオ・ナガシマが89歳で死去」との見出しを取り、「日本で最も長くスポーツ王朝を築いた1960年代から70年代の東京読売ジャイアンツのカギとなる選手の一人で、長嶋氏は、入団1年目からスター選手だった」と長嶋氏の死去を悼んだ。
同紙は「1957年に巨人とプロ契約を結んだ瞬間からスターだった長嶋氏は、パワフルな打撃とスピードあふれる走塁や三塁手として猫のような反射神経で即座に大評判となった」と紹介。
さらに「彼の世代のどの選手たちよりも、長嶋氏は、第2次世界大戦後に無我夢中に再建に進み経済力を伸ばしていった国のシンボルとなった。彼の容姿やカリスマ性が魅力を支え。全国中継された1965年の結婚式まで(結婚相手として)日本では格好の独身男性だった」と続け、同紙も長嶋氏が戦後復興に突き進む日本社会の象徴であったことにフォーカスした。
「ニュースメディアは長嶋氏のすべての動きを追った。メディア帝国の読売に所有されたジャイアンツでプレーしたことが彼の功績をさらに大きくした。成功と名声をもって“ミスター・ジャイアンツ”、“ミスター・ベースボール”、もしくは時には単に“ミスター”として、彼は誰にでも知られるようになった」
ミスターの愛称に込められた尊敬の念を紹介した。
同紙はまた1960年代に長嶋氏のメジャー移籍計画が水面下であったことを改めて明かした。
「高額契約やボーナスで彼はジャイアンツで最も高年俸の選手だった。1960年代初めまでに彼の才能の噂は米国に届いた。シカゴ・ホワイトソックスのビル・ベック・オーナーは長嶋氏の契約を勝ち取ろうとしたがかなわず、現在は日本選手でスーパースターの大谷翔平が所属するロサンゼルス・ドジャースのウォルター・オマリー・オーナーも同様だった」
ドジャースの東京シリーズの際、生前の長嶋氏をイメージキャラクターとして起用し続けてきた警備会社のセコムが、「60年前、アメリカから声がかかっていた長嶋茂雄。いまその場所で世界一に挑み続けている男がいる」とのキャッチと共に現役時代の長嶋氏のCG映像を作成して大谷氏が対決するような合成映像のCM「夢の対決」を流して話題になった。だが、実際に1966年の日米野球で来日して長嶋氏のプレーを見たドジャースのオマリー会長が長嶋氏の獲得を当時の巨人の正力松太郎オーナーに直談判して断られたという話もあった。
長嶋氏は、後日談として「メジャーでプレーしたかった」との思いを、度々、明かしている。昭和の時代に日本のプロ野球で活躍したからこそ、社会に夢と希望を与え、ミスターの称号で呼ばれ、万人に愛されたのかもしれない。