引退した村田諒太はボクシング界に何を残し彼は第二の人生で何をするのか…海外活動?政治家?学者?起業?スポーツキャスター?
ボクシングのロンドン五輪金メダリストで元WBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太(37、帝拳)が正式に引退会見を開いた。2013年8月にプロデビューした村田は、プロで19戦16勝(13KO)3敗の成績を残し、昨年4月にIBF世界ミドル級王者の“最強”ゲンナジ―・ゴロフキン(40、カザフスタン)と歴史的なビッグマッチを戦い、9回TKO負けを喫して引退を決意していた。今後はマレーシアなど海外に活動の場を広げることや、学問の研究、社会貢献活動などボクシングの枠を超えた幅広い活動を視野に入れて村田らしい“第2の人生”を踏み出す。
ボクシングを30年以上取材しているが、こんな引退会見は見たことがなかった。東京ドームの一番大きな宴会場に村田が現役時代にお世話になった関係者やスポンサーを招待し、プロ19戦のすべての写真が掲載された大画面が、村田が座るひな壇のバックにあった。報道席は満席。来場者には引退記念のミニグローブがプレゼントされた。
「本日をもってプロボクサー村田諒太は引退します」と自ら切り出した村田は、まず所属した帝拳、スポンサー、放送関係者らにユーモアを交えながら、深く感謝の言葉を述べた後に「ボクサーとしては引退だと思うが、これは引退という名のスタート。より良い社会、より良い未来を作るために、これからのスタートを宣言したい」と、村田らしく、後ろを振り返ることなく、第二の人生に目を向けた。
引退を決断した理由は「これ以上、ボクシングに求めること、ボクシング界に僕ができるものがあまり見つからなかった」というもの。
アマゾンプライムビデオという巨大資本の参入をゴロフキン戦から切り拓き、「もっと欲を出せば稼げた」が、その欲が出なかったという。
本田会長はゴロフキン戦に敗れたものの、逆に試合内容が評価された村田に対戦オファーが殺到していたことを明かしたが、村田は、「この1年もう一度ボクシングをしようと思ったことは一度もなかった」と言う。
今だから書くがゴロフキン戦を前に村田は筆者に爽やかな顔をして「試合が終わるまで書かないで下さい。勝っても負けても引退です」という決意を語っていた。
首、肘、膝と故障だらけで、ゴロフキン戦前には、ほとんどロードワークもできなかった。ミドル級の激しい打撃戦のダメージで動体視力も急激に落ちていた。もう気力も体力も限界だった。
南京都高(現・京都廣学館高)時代の恩師の武元前川先生は、生前、「ダメージを負って引退したらダメなんだ」と口を酸っぱくして言っていた。
会見で村田は「今、僕の活舌は大丈夫ですか?武元先生の『プロにはなるな』の約束は破ったが、最低限の健康のまま引退することは守れたと思う」と笑った。
村田は最も印象に残った試合としてデビュー戦の柴田明雄戦をあげた。いきなり現役のOPBF東洋太平洋ミドル級王者が相手となり、当時も「何もしていないのにいきなり罰ゲームかと思った」と半分本気で語っていた。
「一番感謝しているのが、デビュー戦で試合をやってくれた柴田さん。失うものが多くある状況でのんでくれた。あの試合に勝てたから、免罪符をもらい、その先のキャリアに使えた。もし負けていたら究極の出落ち。デビュー戦に負けましたでは笑えない。だからあの試合は緊張した」