引退した村田諒太はボクシング界に何を残し彼は第二の人生で何をするのか…海外活動?政治家?学者?起業?スポーツキャスター?
WBA世界ミドル級王座決定戦でのアッサン・エンダム(カメルーン)との疑惑の判定負けから、初の世界奪取に至る因縁の2試合の感動、王座を陥落した後にリターンマッチで地元関西において2回TKO勝ちし王座に返り咲いたロブ・ブラント(米)戦の熱狂、そして歴史的だった最後のゴロフキン戦など記憶に残る名勝負は多かった。
「すべての試合の前後にあったことを思い返す。それが大事だった」
村田は、帝拳ジムの本田明彦会長、浜田剛史代表、長野ハルマネージャーの3人を「感謝と重圧の人々」と表現しエピソードを2つ話した。
ダウンを奪いながらも、まさかの判定負けとなった2017年5月のエンダムとのWBA世界ミドル級王座決定戦の試合後、本田会長からは仕留めきれなかった村田を責めることなく「村田悪かったな。判定で嫌な思いをさせてしまったな」と謝罪され、ゴロフキン戦では敗れて控室へと花道を逆に歩き始めた際に「見ろよ。誰も帰っていないよ。負けた試合で初めてだよ」と声をかけられたという。
村田はプロアマのボクシング界に大きな功績を残した。
ロンドン五輪で日本人初のミドル級の金メダリストとなり、プロでも竹原慎二以来、2人目のミドル級世界王者となり日本人初の防衛もやってのけ、アジア人には無理だのレッテルをはがし世界最高峰の選手が集まる中量級に風穴をあけた。ジムの後輩の中谷正義は、あのワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)と戦ったし、来月8日には、WBC世界ライト級挑戦者決定戦として吉野修一郎(三迫)が“ネクスト”メイウェザーと呼ばれるシャクール・スティーブンソン(米)と対戦するなど中量級にあった“壁”を崩した。
ゴロフキン戦はアマゾンプライムビデオが初めてライブ配信。視聴者数で大成功を収めたことで、高額ファイトマネーが捻出される新しいビジネススタイルが確立されることになった。
その後、NTTやABEMAなどが参入、帝拳が日テレ系列とタッグを組み1954年からスタートさせた「ダイナミックグローブ」も4月1日より地上波から離れて「WHO’S NEXT DYNAMIC GLOVE on U-NEXT」として心機一転、動画配信サービスU―NEXTのネットのライブ配信でスタートすることになっている。
だが、村田は「ミドル級を主張すると問題は起きません?ここで俺のミドル級は凄いんだという気はない。ただ上の階級に挑戦するひとつのモデルになったのはよかった」とし、シャクール対吉野の試合を持ち出して「アマゾンはたまたま。一発目に好評を得たのは嬉しいが、僕でなくてもあったと思う。僕も作り上げられたし、スターは半分作り上げられるもの」と謙遜した。
そしてこうも言った。
「ボクシングへの恩返しは何もできていない気がする。長い歴史のなかで何かの架け橋になって何かをつなぐ要素にはなったのか」
中学時代に金髪に髪を染めていた村田は、自らのアイデンティティを求め、それを強さへの追究に重ねた。引退する今、強さを証明できたか?と質問され、強さの答えは出なかった」と返答した。
「葛藤することが生きていくということ。醜さ、弱さを克服したいというちょっとした向上心を引きずっていくのが人生だと、今日、この時点で思う」
――ボクシングはあなたに何を与えてくれたか?
「一番は出逢い。ボクシングを通して色んな方と出会いを得て感謝することができた。ボクシングは目的ではなく人生を充実させるツールだった」
それが村田にとってのボクシングだった。