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広島カープの現役時代の北別府学氏は独特のフォームとリズムで抜群の制球力を誇った(写真・日刊スポーツ/アフロ)
広島カープの現役時代の北別府学氏は独特のフォームとリズムで抜群の制球力を誇った(写真・日刊スポーツ/アフロ)

追悼…通算213勝を誇る広島の“レジェンド”北別府学氏が遺したメッセージ…「探求心を忘れるな」

通算213勝を誇る元広島カープの北別府学氏が16日、天国へ旅立った。3年前に難病の成人T細胞白血病を発症していることを公表し、闘病生活を続けていた。享年65歳。精密機械と呼ばれるコントロールを武器に最多勝、最優秀防御率、沢村賞、MVPなどの数多くのタイトルを獲得したカープのレジェンド。北別府氏の偉大なる足跡を追った。

「ミリ単位のコントロール」

 

 麻雀パイの「北」から取って「ぺー」の呼び名で親しまれた北別府氏と、初めて会ったのは1975年。今から48年も前だ。当時、スポーツ新聞のカーブ番だった私は、広島にドラフト1位指名された北別府氏への指名挨拶の取材で鹿児島に向かった。担当の宮川孝雄スカウトと2人で広島からフェリーに乗り、鹿児島の現曽於市の実家を訪ねた。
 甲子園出場経験もなく、中央には無名の宮崎県立都城農業の右腕が、注目を浴びたのは、3年春の九州大会で伝習館高を相手に完全試合を達成した試合だった。
 日ハムと巨人が目をつけていたそうだが、巨人は、銚子商の篠塚利夫氏、変則ウエーバーで日ハムより先の10番目の選択権があった広島が北別府氏を1位指名した。
 実家は、山の中にあるポツンと一軒家。
 もうあたりは暗くなっていたが、まだ北別府氏は、帰宅していなかった。学校のある宮崎まで自転車で約20キロの距離を往復していた。それだけではない。
 実家は、牛などを飼う、畜産兼業農家で、北別府氏は、帰宅後、制服から作業服に着替えると、餌を準備するなどの牛の世話を手伝い始めた。
 ちなみに北別府氏は、プロ入り後も宮崎日南キャンプの休日には、実家へ帰り、農作業を手伝っていた。
 プロの世界への不安があったのか、最初は、色よい返事はなく、宮川スカウトは、帰りの船の中で「駒さん、大丈夫やろうか」と心配していた。だが、2度、3度と広島から船で通ってくる宮川スカウトの熱心さに、北別府氏の気持ちはプロ入りへと傾き、古葉竹識監督が新品のグローブとカープの帽子を持って都城を訪れて正式に入団が決定した。

 努力の人だった。
 のちに「精密機械」と呼ばれるコントロールを磨くため、宮崎の日南キャンプでは、ストライクゾーンに糸を張り、そこに、触れないように投げ込みを続けた。
 2年目から早くもローテー入り、1977年に10勝をマーク、翌年は17勝でリーグ優勝に貢献した。1982年には19試合に完投して20勝で最多勝、11年連続で2桁勝利をマークするなど、実働19年で通算213勝を積み上げ、最高防御率、最多勝、最高勝率、沢村賞、MVPなどのあらゆるタイトルを総なめにして、2012年には野球殿堂入りを果たしている。
 現役時代に北別府氏とバッテリーを組んだ、現在、大野寮で寮長を務める道原裕幸氏に連絡を取った。
「ショックです」と沈痛な面持ちだった。
 実直で生真面目。
「先発の前日、当日には一切口を聞かなくなるんです。周りからは、ぺーの先発日は、態度ですぐわかると言われていたそうですが、凄い緊張と集中。近づけませんでした」
 150キロを超えるようなストレートはなかったが、シュート、スライダーを駆使して、ストライクゾーンを目いっぱいに使った。ヒジと手首を柔らかく使い、その独特のテンポに打者は翻弄された。
 道原氏は、「よくボール半個分の出し入れなんて言われますが、ぺーの場合は半個どころじゃなかった。達川(光男)が、縫い目の数ミリの高さでコントロールできたなんて言っていたが、まさにそれくらいの正確さだった」と振り返る。
「打者にぶつけないという自信があるので平気で内角ギリギリをシュートで攻めた。常に攻める気持ちがあった」

 

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