“悲運のファンタジスタ”小野伸二が今季限りでの引退を決意(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
“悲運のファンタジスタ”小野伸二が今季限りでの引退を決意(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

“悲運のファンタジスタ”小野伸二が今季限りで引退

サッカーのW杯に3大会連続で出場した元日本代表MFで、J1の北海道コンサドーレ札幌に所属する小野伸二(44)が27日、今シーズン限りでの現役引退を発表した。この日が44歳の誕生日だった小野は、更新したインスタグラムで「僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので」とスパイクを脱ぐ理由をつづった。卓越したテクニックと繊細なパスでファンを魅了したものの、日本代表ではケガなどに翻弄された“悲運のファンタジスタ”だった。

 背番号「44」の小野が44歳の誕生日に引退を発表

 

公式発表よりも先にファンへ決意を伝えたかったのだろう。
 この日に背番号と同じ44歳の誕生日を迎えた小野が、午後2時44分に自身のインスタグラムを更新。札幌を含めて、所属してきた国内外の7クラブのユニフォーム姿の写真に「THANK YOU」の文字を添えた上で、今シーズン限りでの現役引退を報告した。
「皆さまにご報告があります。サッカーと出会い39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後に、プロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました」
 最後の所属クラブとなる札幌が、公式HPで小野の現役引退を発表したのが同日午後3時。リリースが共有されたクラブ公式X(旧ツイッター)の表示数とリポスト数は、日付が28日に変わった時点でそれぞれ315万件と1万件を大きく超えている。小野のプレーに魅了されてきた多くのファンが突然の引退発表に驚くとともに、繰り返されてきた怪我との戦いを含めて、26年間に及ぶプロのキャリアに敬意を表した証といっていい。
 静岡県の名門・清水商業(現・清水桜が丘高)時代から天才と呼ばれ、浦和レッズ入りした1998年には日本代表が悲願の初出場を果たしたW杯フランス大会にも出場。以後、2002年の日韓共催大会、2006年のドイツ大会に連続出場し、オランダの名門フェイエノールトへ移籍した2001-02シーズンにはUEFAカップ制覇の立役者の一人になった。
 その後に国外でドイツ・ブンデスリーガのボーフムとオーストラリアのウェスタン・シドニー・ワンダラーズ、国内では清水エスパルス、FC琉球、そして札幌でプレーした小野は卓越したテクニックと繊細なパスで稀代のファンタジスタと呼ばれた。
 ただ、非凡な才能を日本代表でも解き放ったのかと言えば、決してそうではない。通算で56試合に出場した軌跡には“悲運”の二文字もつきまとっていた。
 フランス大会翌年の1999年。小野はフィリップ・トルシエ監督のもと、出場資格のあったシドニー五輪出場をかけてアジア予選を戦ったU-22日本代表に専念した。しかし、大量リードを奪っていたフィリピン代表との1次予選で、後方から悪質なタックルを食らって負傷退場。左膝じん帯断裂で長期離脱を余儀なくされてから歯車が狂い始めた。
 チームはアジア最終予選も含めて、圧倒的な力の差を示して五輪切符を獲得した。しかし、小野のコンディションはなかなか戻らず、最終的にシドニーへ乗り込んだメンバーから落選した。ようやく状態が上向きになったのは2001年の序盤。トルシエ監督が採用した[3-5-2システム]の左ウイングバックで、小野は居場所を築いている。
 迎えた2002年のW杯日韓共催大会。主戦場ではない不慣れなポジションながら、左右両足から繰り出される正確なパスと視野の広さはベルギー代表とのグループリーグ初戦で発揮される。先制された直後の後半14分。相手ゴール前へロングパスを供給してFW鈴木隆行の同点ゴールをアシスト。最終的に2-2で引き分けた日本は2度目のW杯で初めて勝ち点を獲得し、続くロシア、チュニジア代表に連勝して決勝トーナメント進出を果たした。

 

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