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阪神の岡田監督は今やオリオールズのブルペンの切り札となった藤浪晋太郎の米移籍も了承した(写真・AP/アフロ)
阪神の岡田監督は今やオリオールズのブルペンの切り札となった藤浪晋太郎の米移籍も了承した(写真・AP/アフロ)

【緊急連載4】15年前とは“変わった”岡田監督…球団が決めた藤浪晋太郎の米移籍を了承し“2005年V戦士”赤星憲広氏、鳥谷敬氏、井川慶氏、桧山進次郎氏らの入閣案も引っ込めた

 藤原オーナー、谷本修オーナー代行、百北幸司球団社長のトップの3人は、岡田監督の前監督時代に接点のない人物である。岡田監督の人となりも、その考え方も知らない。すべて過去の伝聞だった。
「岡田監督の解説でのチーム批判なども影響しているみたいだ」
 元幹部はそうも言った。
 阪神のOBは、テレビや新聞の解説でほぼ球団批判は行わない。阪神が在阪局に再就職をお願いして解説者となったOBも少なくないため、批判をしにくい環境にあり、またコーチとしての復帰を狙っている人は、特に舌鋒はゆるい。
「球団批判をする人はコーチになれない」という阪神の暗黙の条件を肌で感じているからだ。批判を受け入れられない時点で球団フロントの在り方に疑念を感じるが、岡田監督は、解説者時代にそんな忖度などしなかった。
「それで野球のファンは面白いのか?」
 信念があった。
 
 藤原オーナーが角CEOと会談したのは9月16日だった。
 藤原オーナーは、再度、平田案を持ち出したとみられるが、話し合いの結果、ここで角CEOが推す岡田監督で決着がついた。長い歴史上、阪神が次期監督を決めるという不文律が初めて崩れた瞬間だった。
 球団に藤原オーナーが結論を持ち帰り、岡田監督を迎えての来季構想の下地を作った上で嶌村聡球団本部長が、岡田監督に電話をかけた。
「お時間をいただけますか?」
 もちろん監督要請ではなく会談のアポ。だが、岡田監督は、それが何を意味するかわかっていた。9月22日に大阪市内のホテルで百北球団社長、粟井一夫副社長、嶌村本部長から正式オファーを受けた。阪神の動きが遅かったせいで、監督要請は数時間に及び組閣や大枠での編成についての話も大急ぎでつめた。
 岡田監督は、彼らが危惧していた15年前の岡田監督ではなかった。自分たちが用意した構想のほとんどを受け入れてくれたことに驚くことになる。
 岡田監督は、組閣に関して腹案があった。コーチ経験のない2005年の若いV戦士と、その優勝時にコーチを務めた経験豊かなベテランコーチをミックスさせるという考えだった。
「コーチは若返っているけれど、ベテランコーチって必要なんや」
 腹案のベテランコーチの一人は中西清起氏だった。“球道”と呼ばれた1985年の優勝時のストッパーで2005年は投手コーチを務めていた。岡田監督は、中西氏と安藤優也、久保田智之の組み合わせを考えていたが、球団は、1軍でのコーチ経験のない若い投手コーチ2人だけで組閣することを提案してきた。
 岡田監督は、その意見を受け入れた。
「2人とも若い投手コーチで大丈夫ですか?」
「オレがやるよ」
 前監督時代にはコーチに厳しく“仕事”を求めた。
 だが、今回は、積極的に自分が前に出た。“岡田の考え”を、この1年で彼らに浸透させたかった。投手継投やローテーションの選定は、自らがやったが、その土台は安藤コーチらが考えてきた。
 1年が終わり「あの2人はええよ。安藤はしっかりとした自分の意見を言ってくる。“それちゃうやろ”もたくさんあったけどな」と評価した。
 打線をつなげたチームの四球数が取り上げられる機会が多かったが、与四球もリーグ最少だった。安藤、久保田の2人がストライクゾーンで勝負する意識を植え付けた結果だった。10勝投手を3人作り、休養を与えながらブルペンを整備した。チーム防御率2.64は、誇れるリーグで断トツの数字だった。

 

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