追悼…板東英二さんは甲子園のプレスルームで原稿用紙に自分で評論を書いていた…ピタリと収まる文字数と「ダイヤモンドの外におもろいことが」の教え…“脱税問題”後の野球への回帰
中日の元投手で引退後は野球評論家、タレント、俳優など幅広い分野で活躍していた板東英二さんが22日に慢性心不全のため死去したことを28日、公式サイトが発表した。86歳だった。すでに葬儀は家族で行われた。
甲子園の1大会83奪三振は今なお最多記録
才能と人間味にあふれる人だった。
筆者がサンケイスポーツに入社した頃、坂東さんは同社の専属評論家だった。当時から、新聞の評論は、口述でアンカーが代わって原稿を書くのが当たり前だったが、坂東さんは、試合が終わると、甲子園球場のプレスルームの一番端っこに座って、自分で評論原稿を手書きで書かれていた。
その原稿をもらってファックスするのが筆者の役目だった。当時は5行1枚の小さな原稿用紙。坂東さんは、一度全部書いてから読み直すのではなく、5行が終わると筆者に手渡ししていく。それが毎回決められた文字数でピタリと収まった。いつも新聞記者よりも先にいつも原稿を書き終えていた。
口語体でウイットに富んだ文章だった。
当時の取材現場は、殺伐とした雰囲気で、先輩記者は何も教えてくれず、タイガースの選手や監督、コーチ、スタッフもピリピリして近づけないオーラを醸しだしていた。そんな中で坂東さんだけが駆け出し記者に優しかった。
「あんな。試合はダイヤモンドの中だけ見てたらあかんねんで。その外におもろいことがあるからな。坂東さんに可愛がってもらっていますと、選手やスタッフに声をかけたらええねん。それやったら逆効果か」
説明するまでもなく坂東さんは、徳島商の大エースで、1958年の夏の甲子園準優勝投手。語り草となったのは、準々決勝の魚津戦。村椿輝雄との投手戦は延長18回で0-0の引き分けとなり、216球を投げ、25三振(1試合最多奪三振の参考記録)をマークした。その大会での通算83奪三振は、今なお大会最多記録だ。
中日では、入団3年目に開幕投を務めるなどしたが、故障に苦しみ晩年はブルペンに回った。実働11年で、435試合77勝65敗、通算防御率は2.89。オールスターにも3度出場している。
筆者の中での板東さんは野球評論家だった。

