• HOME
  • 記事
  • 野球
  • 追悼…板東英二さんは甲子園のプレスルームで原稿用紙に自分で評論を書いていた…ピタリと収まる文字数と「ダイヤモンドの外におもろいことが」の教え…“脱税問題”後の野球への回帰
板東英二さんは公私で仲の良かった星野仙一氏が監督を務めていた楽天キャンプを2012年に訪れていた(写真・スポーツ報知/アフロ)
板東英二さんは公私で仲の良かった星野仙一氏が監督を務めていた楽天キャンプを2012年に訪れていた(写真・スポーツ報知/アフロ)

追悼…板東英二さんは甲子園のプレスルームで原稿用紙に自分で評論を書いていた…ピタリと収まる文字数と「ダイヤモンドの外におもろいことが」の教え…“脱税問題”後の野球への回帰

 中日の元投手で引退後は野球評論家、タレント、俳優など幅広い分野で活躍していた板東英二さんが22日に慢性心不全のため死去したことを28日、公式サイトが発表した。86歳だった。すでに葬儀は家族で行われた。

 甲子園の1大会83奪三振は今なお最多記録

 才能と人間味にあふれる人だった。
 筆者がサンケイスポーツに入社した頃、坂東さんは同社の専属評論家だった。当時から、新聞の評論は、口述でアンカーが代わって原稿を書くのが当たり前だったが、坂東さんは、試合が終わると、甲子園球場のプレスルームの一番端っこに座って、自分で評論原稿を手書きで書かれていた。
 その原稿をもらってファックスするのが筆者の役目だった。当時は5行1枚の小さな原稿用紙。坂東さんは、一度全部書いてから読み直すのではなく、5行が終わると筆者に手渡ししていく。それが毎回決められた文字数でピタリと収まった。いつも新聞記者よりも先にいつも原稿を書き終えていた。
 口語体でウイットに富んだ文章だった。
 当時の取材現場は、殺伐とした雰囲気で、先輩記者は何も教えてくれず、タイガースの選手や監督、コーチ、スタッフもピリピリして近づけないオーラを醸しだしていた。そんな中で坂東さんだけが駆け出し記者に優しかった。
「あんな。試合はダイヤモンドの中だけ見てたらあかんねんで。その外におもろいことがあるからな。坂東さんに可愛がってもらっていますと、選手やスタッフに声をかけたらええねん。それやったら逆効果か」
 説明するまでもなく坂東さんは、徳島商の大エースで、1958年の夏の甲子園準優勝投手。語り草となったのは、準々決勝の魚津戦。村椿輝雄との投手戦は延長18回で0-0の引き分けとなり、216球を投げ、25三振(1試合最多奪三振の参考記録)をマークした。その大会での通算83奪三振は、今なお大会最多記録だ。
 中日では、入団3年目に開幕投を務めるなどしたが、故障に苦しみ晩年はブルペンに回った。実働11年で、435試合77勝65敗、通算防御率は2.89。オールスターにも3度出場している。
 筆者の中での板東さんは野球評論家だった。

 

関連記事一覧