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今年3月の勇姿…元日本代表FW工藤壮人さんが水頭症で亡くなった。32歳。あまりにも早すぎる生涯にサッカー界に悲しみが広がった(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
今年3月の勇姿…元日本代表FW工藤壮人さんが水頭症で亡くなった。32歳。あまりにも早すぎる生涯にサッカー界に悲しみが広がった(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

32歳で旅立った工藤壮人さんを偲ぶ…背番号「9」に込めたプロの矜持…「明日は共に戦おう」

 北嶋さんが熊本へ完全移籍し、別々の道を歩み始めた2013シーズン。工藤さんはリーグで5位タイとなる19ゴールをマークし、イタリア人のアルベルト・ザッケローニ監督に率いられる日本代表にも初招集。この年に4試合に出場して2ゴールをあげている。
 もっとも、工藤さんは人知れず苦悩を抱えた時期もあった。2013シーズンの前半。プレッシャーの源泉は、自ら望む形で手に入れた「9番」だった。その理由をこう語っていた。
「いままでにないくらいのプレッシャーがありました。リーグ戦で自分がゴールを決めても、チームを勝利に導けない責任も感じていたので」
 自らの先制ゴールで浦和レッズを下し、14年ぶりの大会制覇を成し遂げた2013年11月のヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)決勝後の取材エリア。大会MVPを獲得した工藤さんへ、メディアから北嶋さんにまつわる質問が飛んだ。
「これで北嶋さんを超えたと思いますか」
 工藤さんは首を横に振りながらこんな言葉を残している。
「背中で語るのが似合う選手だった。人間としてキタジさんを追いかけ続けたい」
 数字や結果では語れない存在として、北嶋さんの背中を位置づけていた思いが伝わってくる。北嶋さんが持っていた柏の歴代通算最多ゴール記録「52」を更新し、最終的には「56」まで伸ばした2015シーズンをもって、工藤さんは活躍の場を海外へ求めた。
 新天地となったMLSのバンクーバー・ホワイトキャップスでも「9番」を背負った点からも、工藤さんがサッカー人生で抱き続けた矜恃が伝わってくる。翌2017年に加入した広島では一転して「50番」を背負ったが、実は交渉時に「9番」を打診しいていた。
 工藤さんが交渉していた時点で去就が決まっていなかった2016シーズンのJ1得点王、FWピーター・ウタカ(現京都サンガF.C.)が「9番」をつけていたためだった。ならばと「50番」を希望した理由を、工藤さんはこう説明してくれたことがある。
「僕自身が最大限の力を発揮する、ということで。Jリーグでつけられる一番大きな番号なので」
 Jリーグでは原則として「51番」以降の背番号は認められていない。最大の番号を介して最大の力をチームに還元したいと思ったのは、この時点でも北嶋さんの背中を追いかけていたからだろう。

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